No.11 原発から避難している福島の人々の生活の質を高め、コミュニティのつなぎ直しをめざす


RISTEXの研究開発領域内で活動された研究者や、RISTEXの支援している活動に参加されている研究者を突撃訪問!
論文からは見えない研究の背景や裏話はもちろん、「人」に鋭く迫ります!

丹波 史紀氏(福島大学 行政政策学類 准教授)に突撃取材!

 今回は、「東日本大震災対応・緊急 研究開発成果実装支援プログラム」(※)から、福島県の仮設住宅で暮らす人々の生活の質の向上に取り組む丹波史紀氏のご登場です。
 東日本大震災と福島原子力発電所の事故により、大きな被害を受けた福島。震災から7カ月以上が過ぎた現在(平成23年10月)でも、約16万人の方が避難生活を送っています。
 丹波先生は、平成16年の新潟県中越地震で旧山古志村を支援した際に得た知識や経験を今回の震災に活かし、福島県内の仮設住宅で暮らす人々の生活の質を向上させる実装活動を行っています。
 多忙を極める丹波先生を、福島大学の研究室に突撃しました。
 (このインタビューは平成23年9月末に行ったものです)

 ※「東日本大震災対応・緊急 研究開発成果実装支援プログラム」は、東日本大震災の災害復旧・復興に即効性のある研究開発成果を被災地域に実装する平成23年度限りのプログラムで、丹波先生の実装活動を含む全6件のプロジェクトが5月から活動を行っています。

 
福島大学 行政政策学類の建物(福島県福島市)

今、福島は

――震災から半年以上経ち、避難所が続々閉鎖されています。仮設住宅への入居は一段落ですか?

丹波 9月末現在で、入居率が75%くらいですね。県外に避難した人たちが戻ってくるようなことも想定して、ある程度空家を残しています。例えば東京の東雲住宅に500世帯くらい避難しているんですが、その人たちが帰りたくなった場合に入居できる仮設住宅を空けておかなければならないですから。

――福島県民で現在、避難生活を送っていらっしゃる方は何人くらいですか?

丹波 県内に避難区域から移った人が3万人くらい、避難区域外の人が8千人くらいですね。県外に避難されている人が5万7千人くらいではないかと思います。

――仮設に入居された方の現在の状況はどんな感じですか?

丹波 やっと落ち着いてちょっとホッとして、自分の時間もできてプライバシーもできて・・・なんですが、福島県全体で、5万人くらいが失業状態です。仕事を失った人たちだけでなく、原発の警戒区域に会社があるため働けないというような人もたくさんいて、日中何もすることがないわけです。
 これまでの生活との切り替えが上手くできていないということですが、そういう人たちが生きる意欲を失わないような取り組みを考える必要があると思います。きちんとメリハリをつけた生活を、就業も含めてどう作っていくのかが課題ですね。

――今、先生が感じていらっしゃる問題はどんなことですか?

丹波 特に福島では今までの災害とは違う特殊な避難生活を余儀なくされるという点ですね。家は残っているのにいつ帰れるかわからず、避難しなければならないんです。これまでの災害の経験だけでは上手くいきません。あとは民間借り上げに流れた人たちがものすごく多い。仮設住宅より民間借り上げに入った人の方が多いですから。それから被災者への支援が横につながっていないということ。支援する側同士のコミュニケーションが取れていないために、一人の被災者のところに何人もの支援者が一日に何度も健康状況を確認しに訪問するというようなことが起こっています。


研究代表者の丹波史紀氏(福島大学 行政政策学類 准教授)

 避難生活では、地震など自然災害で住宅が全壊したのであれば被災者生活再建支援法という法律が使えて、最大300万円まで支給されます。ところが福島の原発避難の場合、住宅自体は残っているので、この法律が対象にならないんです。東京電力からの賠償金が今の時点では義捐金が40万円で、一世帯あたりの当初の仮払金が75万円。今後賠償金額が確定していくことになるんですが、どのくらい払われるかはまだわからないんです。

――同じ被災地でも、岩手県や宮城県とはやはり違いますね。

丹波 福島が岩手や宮城と違うのは「いつ戻れるか見通しが立たない」ということです。福島県は津波の被害に遭われた方よりも原発で避難している方のほうが多いんです。その方たちの家は残っているので、状況が改善されれば戻れますが、今はできないし、いつになるかもわかりません。
 ですから就職に関しても1年2年の臨時でいいのか、正社員として転職してしまった方がいいのかの判断がつけられません。避難生活だけでなく、人生をどう組み立てていくかという見通しが立たないんです。
 例えば正社員として就職した後、地域に戻れることになった場合、仕事を辞めてまで戻るのかどうかという問題も発生します。非常勤や期間雇用などの形態で働いていて、帰れるなら帰りたいという思いを持っている人たちも、何年か経つうちに徐々に根づいて戻らなくなってしまうこともあり得ると思います。生き方が全く変わってしまいますが、そうしないと生活できないですから。

県内に5500戸の木造の仮設住宅を建設

――先日、福島県本宮市の恵向公園に作られた応急仮設住宅のサイトビジットに伺いました。ログハウス型の木材仮設で、風景になじんでいましたね。

丹波 福島県内で建設した16000戸のうち、6000戸を県内の建設業者に発注しました。なるべく県産の木材を使ってほしいと要望し、約5500戸が木造になりました。プレハブの仮設住宅で問題となっている結露や音の問題が、木造だとある程度効果が期待できるということもあるのですが、やはり木には温もりとか生活感とかそういう精神的なものに働き掛ける良さがあると思うんです。
 コンペ形式にしてそれぞれの業者さんに設計を提案してもらったところ、ログハウス型とかロフト付とか個性のある提案が出てきました。


本宮市恵向公園に建設された応急仮設住宅。全137戸のコミュニティ

――恵向公園の応急仮設住宅は全137戸とかなり大規模ですが、入られているのはどのような方たちですか。

丹波 自治体単位で建設しており、恵向公園に入居しているのは原発の警戒区域である双葉郡浪江町の人たちです。本当は町で一か所に集められるのが理想ですが、とてもそうはいきませんでした。浪江町も7500世帯くらい避難している方がいて、二本松市や福島市内、桑折町など数カ所に分かれています。高齢の方ばかりではなく、割合的には少ないですが若い方たちもいます。

 

――恵向公園のコミュニティには中央に大きな集会所と高齢者用グループホームがありますね。また、地中熱を利用した空調を行ったり、仮設住宅から復興住宅への転用ということも考えられた建築ですね。

丹波 コンペで選ばれたそれぞれの業者さんが、割り当てられた敷地や戸数に合わせて配置など具体的な計画を立てました。グループホームは浪江町にあったグループホームの移転という趣旨で、もともと入居していた方たちを引き取るのが目的です。
 仮設住宅は災害救助法では約2年で退去ということになっていますが、福島の場合は原発による避難ですから何年かかるかわかりません。山古志の時も地域によりますが3年くらい住んでいたところもありました。
 当面の避難生活の質を少しでも良くするために出来ることは何かを考えていかなければならないと思っています。


恵向公園の仮設住宅内に建設された高齢者用グループホーム。全9戸

――地元の建設業者さんの反応はいかがでしたか?

丹波 県内の建設業者で4000戸、追加で2000戸が受注でき、地元の仕事づくりに生かされたことは大きかったし、すごく良かったという声は聞きました。ただ、お盆に完成することを目標としてスピード感を持って建設しなければならなかったので、30日とかかなり短い納期でお願いしたんですね。雨が降ろうが何しようがお構いなしで作業しなければならなかったので、もう少し納期に余裕を持って作らせてくれればもっといい質のものが作れたのに、という声も聞かれました。
 10月に木造仮設の汎用化を目指して福島県と研究会を作るのですが、供給体制とか納期の問題とか、木造と行ってもログハウス風とかロフトがあるとか様々なので標準的なスペックみたいなものの仕組みづくりを考えていきたいと思っています。仮設住宅のスペックは戦後のバラックの時代からあまり変わっていないんです。あくまで仮設ですから、快適性はあまり配慮されていないんですね。でも、福島の場合はもっと長くにわたって生活せざるを得ないかもしれないですし、2年程度だから我慢しなさいということではないと思います。また今後発生する可能性のある大地震に際して、今回の福島を参考にしてもらえるような仮設住宅の仕組みづくりをしたいと思っています。


 
左:グループホームの隣にある集会所。地中熱や太陽熱といった再生可能エネルギーの利用を図っている。
右:集会所内の地中熱を利用した空調。地中にパイピングして熱を採集、居室に放熱している。夏は冷房、冬は暖房の効果が期待できる。

ソフト面の質の向上について

――仮設住宅の建築がほぼ終了したので、ハード面は一段落で、これからはソフト面ですね。

丹波 基本的なハードの枠組みの部分はほぼ終わったと考えていいと思います。ただ、浜通り(沿岸部)の人たちは雪の多い場所で暮らした経験がなく、雪かきをしたことがない人もいるのですが、雪の多い会津若松市の仮設に入居した方もいて、冬は心配ですね。
 協力を申し出てくれている帝人さんが、融雪の技術を持っているので、集会所のまわりなどに後付けで設置したいと思っています。音の問題や結露の問題も後付けで改善していけるところはしていきます。

――仮設住宅は追加の2000戸を除いてはほぼ完成したのですか?

丹波 基本的には終わっています。早い段階のものは5月にはできていたんですが7月末~8月にかけての完成が多かったので、そこから本格的な入居が始まりました。二次募集の2000戸は全て木造仮設住宅です。豪雪地帯は結露がすごく、山古志の時は天井につけたペットボトルを一日に何本も取り替えなければならなかったり、床にカビが生えたりということがあったんですね。そこで雪の多い会津地方の仮設住宅については県がペアガラスを標準仕様にしてくれました。


中越地震の際の応急仮設住宅。結露のため天井にペットボトルをつけて対応していた。(※)


伊達市の木造仮設住宅。断熱材を使用。(※)

――仮設住宅に入居された人のご感想はいかがですか?

丹波 8月上旬にそれぞれの地域で活動を行っているNPOの人たちなどと協力して仮設住宅に入居した人たちにアンケートをしました。入居直後と1カ月以上過ぎた現在ではたぶん反応も課題に思っていることも違うと思うのですが、生活のインフラ、例えば病院だとかスーパーが身近にあるかどうかは大きな課題ですね。車などの移動手段を持たないとなかなか動きが取りにくいので、今は仮設店舗や病院を巡回するようなバスを作ったりということをやり始めています。これからスピード感を持ってやらなくてはならない課題です。


 
左:恵向公園の仮設住宅の2DKの洋室(4.5帖) 右:台所
エアコン、テレビ、冷蔵庫などの備品は日本赤十字社からの支給。

――恵向公園も工業団地の中にあって、生活インフラはあまり近くにはなさそうでしたね。

丹波 そうですね。スーパーが移動販売を始めたということを聞いたりしますが、仕組み作りは必要ですね。コンビニの出店はありますが、生鮮品などは揃いませんから。生協の宅配やネットスーパーの利用も考えられると思います。
 八百屋さんとか床屋さんとかお店を今までやっていた人が、経験を活かして自分たちで仮設店舗を作るというアイディアもありますね。今のところ入居された方がこれまでどういう仕事をされていたか把握できていないので、これからNPOと協力しながらやっていかなければならないですね。

――コミュニティバスを走らせるというアイディアもありましたね。

丹波 飯舘村は松川工業団地など福島大学のそばに仮設がありますが、近くに蓬莱団地という大きなニュータウンがあり、もともとコミュニティバスを無料で巡回させているんです。蓬莱団地にはスーパーもあるので、新しくコミュニティバスを作るのではなく、既存のコミュニティバスの巡回を松川団地に広げられないかと考えています。
 被災した町が全て自前でやらなくてはならないというのではなく、引き受けてもらった自治体などの社会資源を有効に生かせれば、被災した方たちと引き受けた自治体の方たちとの交流も自然にできると思いますし。松川団地だけでなく、他の地域にも展開して行きたいです。

民間借り上げ住宅の想定外の多さ、そして自主避難の方の問題

――今回は仮設ではなく民間借り上げ住宅に入られた方も多いんですね。

丹波 当初は、民間借り上げは5000戸くらいかな、と思っていたんです。今は2万3000戸くらいで仮設住宅の数を超えてしまうほどになっています。4月の時点では民間借り上げにこれだけの人が流れるということは想定していませんでした。

――すごい数ですね。民間借り上げはどのような仕組みなのですか。

丹波 民間借り上げ住宅は、基本的には一ヶ月、一世帯6万円くらいの補助が出ます。県が契約して借り上げたものに入るという形ですね。
 厚生労働省が民間借り上げを「みなし仮設」という形で仮設住宅と同じ扱いにするという通知を出したんですね。それで広がりました。

――民間借り上げへの入居を選択されたのはどのような人ですか?

丹波 今回被災した地域は1世帯あたりの人数が多い地域が少なくありません。飯舘村などでは1世帯10人というような大家族もあったりしますが、仮設住宅は大きさが決まっているので狭くて暮らせないんです。
 また小学生などのいる若い世帯などは、子どもの教育を考えて新学期に合わせて借り上げに入ってしまうというようなこともありますね。それから、職場のある場所にもよりますよね。例えば飯舘村は福島市内の松川工業団地や旧飯野町に仮設住宅を作っているんですけれども、職場が浜通り(沿岸部)の相馬市などにあると、2時間くらいかかってしまうのでとても通えません。生活の基盤を何に置くかで住む場所が違ってくるということと、中越地震の時と違って意外に都会的なライフスタイルの人が多いこともあるでしょうね。

――福島県の発表している資料を見ますと、「自主避難」の方もたくさんいらっしゃいますね。

丹波 そうなんです。例えば南相馬市は小高区、原町区、鹿島区と3つの区からできていますが、南の小高区は警戒区域、市役所などがある中心部の原町区は緊急時避難準備区域(注:インタビュー直後の9月30日に解除)、北側の鹿島区は全く避難区域外です。でも鹿島区からも多くの人が避難しています。南相馬市は7万人くらいの人口のうち、残ったのは1万人くらいですから。先日「あずま総合体育館」という福島市の中で一番大きな避難所が閉鎖された時も、区域外から避難していた人たちが帰れないということで問題になりました。

――お隣の地域が避難区域なんですから、不安ですよね。

丹波 子どもさんの健康を心配して避難するご家庭も多く、2学期が始まった時点での県外への転校者は8750名です。福島市や郡山市から県外に転校する子どもも結構います。
 今、自主的に避難されている方への補償や支援が問題になっています。東京の赤坂プリンスホテルが廃業後に避難所として受け入れをしましたが、避難した方の中にはいわき市の住民なども結構いたんです。いわき市は警戒区域でも何でもないので、食事の提供はありましたが、自分たちで全部生活のやりくりをしなくてはいけませんでした。お父さんはいわき市に残っていて、週に一回家族に会いに上京するというような時でももちろん何の支援もなく、全部自己負担です。
 今のところどのように支援するか決まっていませんし、被災者生活再建支援法も自然災害が対象なので、何の手だてもありません。
 これを賠償の対象とするのか、あらたな特別措置として法律を作るのかは、きちんと議論していかなければいけませんよね。

取り組みの原点は新潟県中越地震における山古志村の支援

――ここで話題を変えて、新潟県中越地震で山古志村を支援された時のお話を伺いたいと思います。きっかけはどんなことだったのでしょうか。

丹波 平成16年10月23日に新潟県中越地震が発生し、2日後くらいから学生たちと避難所にボランティアという形で入りました。福島の隣の県ですし、大学に赴任して一年目で時間的に余裕があったので、やろうと。山古志村の避難所の一つである長岡大手高校の運営や支援に携わりました。
 ボランティアセンターで話していたら、ちょうどヘリコプターで山古志の人たちが降りてきたんです。大変だから手伝ってくれないかといわれて、それが始まりです。全くの偶然でした。

――学生さんたちも活動されたんですね。

丹波 僕のいる行政政策学類が中心となり、全学的に参加してくれました。
 学生たちに義捐金や物資を集めるだけではなく継続的な関わり方をしたいという気概があったので、10月25日に初めて大手高校に入ってから、仮設住宅が完成して避難所が閉鎖する12月19日までの約2ヶ月間、学生たちは延べ300名くらい、ほとんどの期間滞在していましたね。必ず誰かがいるようにしていました。

――その後、仮設住宅におけるハード・ソフト両面の生活改善というご研究につながっていくわけですね。

丹波 支援を続けているうちに、長岡技術科学大学の木村悟隆先生などとつながりが出来、一緒に研究しようということになりました。福島県立医大の先生にも加わっていただき、科研費で山古志を中心とした仮設住宅の生活環境についての共同研究をやりました。
 その時に研究した結露や騒音の対策、またコミュニティをどう維持するかということについての研究成果が、今回福島の仮設住宅での実装のベースとなっています。

――コミュニティの維持というお話ですが、山古志の仮設住宅は一か所だったんですか?

丹波 そうですね。ほぼ一か所ですね。ほとんどの人たちが長岡のニュータウンに入りました。

――入居者の年齢層は高かったんですか?

丹波 はい。面白かったのは、皆さんが、仮設住宅での新しい暮らしにそれなりに馴染んでいるということでした。例えば山古志では一軒一軒の家が離れているので、近所の家にお茶を飲みに行くだけでも半日仕事だったりしたのが、仮設だと5分で会いに行ける。だから仮設も悪いことばかりじゃない、などと言ってくれたりしたんですね。
 そこで旧来の山古志での村での生活をそのまま仮設に再現するということではなく、仮設住宅での新しい生活をどう作っていくのかという視点でものを考えなくてはいけないなと思いました。これは研究の中で新たに気付き、考えさせられた点です。

――山古志ではコミュニティの維持が上手くできたんですよね。

丹波 最初、避難所にはヘリコプターから降りた順に入ったんです。でも集落が違うと知らない人もいます。そこで、集落ごとにまとまって○○集落はここの避難所、××集落はここの避難所、という風に引っ越しをしたんです。班長、組長、区長という組織を作って避難所の運営も自律的にやりました。
 避難生活が終わって山古志に戻ったのは結果としては6~7割でしたが、避難所にいるうちから自治を集落単位でやろうという努力がなければもっと低かったと思いますね。連帯感を持って自主的にコミュニティの維持に努めたんです。

――集落の団結力がコミュニティの維持に役に立ったいうことでしょうか。

丹波 山古志で興味深かったのは「復興基本計画」を集落単位で作ったことなんですね。全部で14集落あるのですが、ほとんど被害のない集落もあった一方、水の中に浸ってしまって集団移転を余儀なくされたようなところもあり、被害に差があったので集落ごとに復興計画を作りました。ですから単に山古志全体をどうしようということだけではなくて、自分たちの身近な生活圏の中でどういう復興をしていくかということを住民自身が考えたということがすごく重要だったのではないかと思っています。

避難生活から少しでも不安を取り除くためのコミュニティの作り直し

――今回、状況はかなり違いますね。

丹波 そうですね。今回はコミュニティの維持ということを言葉として言いにくいほど難しいですね。家族も地域もバラバラになってしまっていますから。
 今回は旧来の集落でまとまればいい、という風にはとてもならないので、いろいろ工夫や努力をしなければいけません。都市的な生活をしている人も多く、山間部の人たちの生活とはずいぶん違います。村単位ならまだ上手くいくかもしれませんが、町になってしまうと何万人という規模なのでまとめることは難しいです。ですから、ここはあまり過去の災害の経験に捉われずに新しく取り組んでいかなければならない部分ですね。避難先の人たちとの新しいコミュニティを作るということもありうるのではないかと思います。

――先生がおっしゃっている「コミュニティの作りなおし」ということですね。

丹波 そうです。仮設住宅の中ももちろんですが、民間借り上げまで含んだコミュニティのつなぎなおしです。
 避難生活にはもちろん大変なことはたくさんありますが、今まで全くつながりのなかった人たちと新しく関係を作ることができるという機会もあります。今後はソフト面でコミュニティの作りなおしをどう行っていくかに注力したいと思っています。

――民間借り上げの人たちはバラバラに住んでいらっしゃいますし、どうつなぐのか難しいですね。

丹波 そうですね。でもコミュニティの作りなおしをしていかないと孤立感を強めるだけだと思うんです。また、いきなり福島市内のある地域を括って、ここに住んでいる借り上げ住宅の人でコミュニティを作りましょう、といっても上手くはいかないですよね。
 また、例えば飯舘村の人が福島市に来たら、飯舘村の人たちだけと交わるのではなくて福島市の住民とも交流することが大事です。被災者ではない近所の住民も一緒にイベントに参加することで新たな関係が作れるかもしれません。
 ですから工夫は必要ですが、子どもや高齢者など家族の共通項をベースとしたり、課題別、階層別に民間借り上げの人たちも一緒にコミュニティが作れればいいなと思っています。

――民間借り上げへの情報の伝え方も課題ではないですか?

丹波 難しいですね。個人情報の問題があり、「どこに誰がいる」というのを公にするのにハードルがあります。でも救援物資などはすべて仮設に届くので、民間借り上げの人たちが仮設を気にしていないというわけではないんです。仮設住宅の方だけでなく、民間借り上げに入居している人たちも疎外感や孤立感を深めて行くことがないように、民間借り上げの人たちを見捨てているわけではないですよ、ということを自治体がきちんと示す必要があります。仮設にいようが、民間借り上げにいようが、県外にいようが、被災者ということには変わりないわけですから。

――仮設住宅に配置される「生活支援相談員」が大きな役割を果たしそうですね。

丹波 生活支援相談員は各自治体の社会福祉協議会の中に配置されます。例えば恵向公園の規模では3名くらいです。阪神・淡路大震災の時は、仮設住宅の入居者が本来の居住地を考慮せずに割り振られたことから、コミュニティが分断され、不眠や不安からアルコール依存症やうつ病になったり、孤独死も発生してしまったんですね。そこで、生活支援相談員はコミュニティを維持し、住民たちが安心して暮らせるよう手助けや見守りを行います。基本的に被災者の中から雇用するように心がけています。町と縁のある人でヘルパー経験者など、中越の時の経験を活かしてやっています。
 生活支援相談員とは別に、「絆プロジェクト」という、県が緊急雇用した人たちが2000名くらいいます。この人たちの業務も被災者の見守りとか仮設の支援で、生活支援相談員と似たようなことをやるんです。ところが役割分担は今のところあまりハッキリしていません。一緒に同じ仕事をしようということでもいいんですが、生活支援相談員は仮設を見て、「絆プロジェクト」の人たちは民間借り上げ住宅を見るというようなことも考えられます。そこは自治体と相談しなければいけないかなと思っています。


恵向公園の仮設住宅に作られた菜園スペース。
共同で野菜や花を育てる場として利用される予定。

多様なステークホルダーとの協働の秘訣

――RISTEXの社会技術研究開発事業は、研究者が研究室の外に出て、さまざまなステークホルダーの方と関わりながら協働して成果を作り上げていくところが特徴的です。丹波先生も多様な方々と関わられていらっしゃると思いますが、今回の取り組みにはどのような立場の方が関与されていらっしゃいますか?

丹波 まず私が社会科学系の人間なので、自然科学系の研究者、理系の先生方ですね。それから建築家や、中越地震の時長岡で生活支援相談員をずっとやってこられた方。それから地元のNPOの人たちと一緒になって被災者支援と復興の街づくりについてのネットワークづくりを行っていこうとしています。あと、福島大学の災害復興研究所や県、市町村などの自治体ですね。
 また恵向公園の住宅は、日大工学部建築学科の浦部智義先生とログハウス協会が連携して設計し、コンペに応募されたのですが、それが縁で浦部先生にはプロジェクトメンバーに入っていただきました。


「ふくしま連携復興センター」の会合

――先日、福島県内で活動するNPOの方が情報を交換する「ふくしま連携復興センター」が立ち上がったそうですね。

丹波 自治体の社会福祉協議会とNPOなどが一堂に会する場を設けて共通認識を持つ場を作るというのは実はすごく難しいことなんです。効率的にやっていこうと思えば重複している部分は役割分担すればいいんですが、そこができていません。誰かが言っていたんですが、行政のことを縦割りだ、というけど、民間も縦割りじゃないかと(笑)。
 被災者の支援ということで横につながらなければいけない人たちがまだまだつながりきれていません。そういう意味では「ふくしま連復」ができたことは大きいと思いますね。


プロジェクトと飯舘村役場・介護事業者の運営会議(※)

 この写真は飯舘村の避難地区に介護サポートの拠点を作る会議の様子です。社会福祉協議会と村役場と業者さんたちが一緒に話し合い、役割分担をしました。これはすごく画期的なことです。
 生活支援相談員や絆プロジェクトは地域の中でのとっかかりを作る役割で、専門的に対応するのは保健師や看護師、介護ヘルパーさんであったりするわけですが、そこまでの「つなぎ」を作ることが必要だし大切なんだと思います。

――先生は福島大学の災害復興研究所でも活躍されていますね。

丹波 所長が福島大学の副学長の清水修二で、僕が事務局をやっています。他にも研究員がおり、RISTEXの活動だけではないですが、仮設住宅の生活環境の改善は大きなテーマなので研究所のプロジェクトとして取り組んでいます。
 災害復興研究所としては、県外避難者の支援の枠組みをつくるような活動もしています。今、県外に避難している5万8000人位います。県外避難者の調査をしてみると、5~6割の人が帰りたいと思っているのですが、月に一回行政の広報紙が送られてくるだけで、他には何の情報もないんです。高齢者などインターネットが使えない方も多く、孤立感を深めています。
 そこで当面の避難生活を県外でする人たちに対して、できれば各都道府県に一か所ずつ「被災者支援センター」のようなものを早急に作って、住まいの問題、学校の問題、仕事の問題とか、行政上の手続きの問題などを相談できるようにしたいと思っています。
 あと、県外に避難している人の中には外国人の方も結構いらっしゃるんですよ。日本語がたどたどしいために、被災者同士のコミュニケーションすら満足に取れていなかったりします。そういう方のサポートも必要だと思っています。
 それからRISTEXとは別のプロジェクトですが、双葉8町村、約3万世帯の避難者の全数調査を行って、今後の双葉郡をどうしていくかという議論の入り口にしようと考えています。RISTEXの支援は今年度末までですが、それから先のことも見据えていかないといけませんから。

――活動を上手く進めていくための秘訣を教えてください。

丹波 その時現場で求められていることにきちんと応えるという姿勢が大切だと思います。
 山古志の時、最初学生たちは「高齢者の支援をしたい」とか「子どものケアをしたい」とか言っていたのですが、いきなりは無理なんです。山古志の人たちは単発で来たボランティアを断っていましたし、信頼関係のない人に自分の子どもを任せたいなんて思いません。お年寄りも自分の心を許すわけがないですよね。それで学生たちもカルチャーショックを受けて(笑)、最初にやった仕事が物資の仕分けでした。支援物資の段ボールって、中に何が入っているか全くわからないんです。お年寄りのものなのか、若い人用なのか、SなのかMなのかLなのかさっぱりわからない。生ものが入っていたということもありましたからね(笑)。役場の数少ない職員で開けるのですが、てんやわんやで整理がつかない、そこに入って一緒に仕分け作業をしたんです。続けるうちに徐々に信頼関係が出来て、役場の若い職員と学生が夜のミーティングを一緒に開いたり、そのうち単発で来るボランティアの人を学生がコーディネートする、みたいになっていきました。「私はこれがやりたい」とか「俺はこれしかできない」とか言っている場合ではないんです。

――今回の震災でも同じような活動をされたのでしょうか。

丹波 飯舘村では、村に色々な研究者が訪れてはデータだけ取っていくということが繰り返されていたので、当初は研究者に対するものすごい不信感があったんですね。福島大学も20年来の長い付き合いではあるんですが、やはり構えられていたんです。それで僕たちが最初にやったのが、村で取っていた避難に関するアンケートの集計でした。アンケートを入力して、どこに誰をどう避難させるかの振り分けをするのですが、村の職員だけでやるのは難しかったので、福島大学の教員と職員50人くらいでもうひたすらパソコンの入力作業をやりました。前の副学長まで入力作業をやってましたね(笑)。地味な作業ですが、そういうところから信頼関係を作っていかないとダメなんです。
 自分たちは研究者だからこうしろ、みたいに上から目線でモノを言うのではなくて、自治体や住民が一番困っていることに協力するという姿勢が大事だと思います。


飯舘村の今後を話し合う「いいたて有志者交流会」。
住民が自らの将来を語り合い、今後の村づくりを考える(※)

――浜通りの地域の方とはいかがですか。

丹波 実は福島大学と浜通りは今まで関わりが薄かったんです。でも今回の震災を契機に浪江町や大熊町、川内村など関わりあいが出来た地域もあり、信頼関係ができてくればいろいろ声を上げてくれると思います。単発で何度か行ってもだめで、じっくり粘り強くつきあっていかないと信頼関係はできないです。これは山古志の時もそうでした。地元の大学ですから腰を落ち着けてじっくり関わることができるかなと思っています。震災後半年くらいの、力仕事でグッと行かなくてはいけない時と、仮設に入って少し落ち着いて生活しようという時では、フェーズも違うし支援の仕方も違うと思うので、今後出番が増えてくるかもしれませんね。

――震災から半年以上過ぎましたが、先生はお休みを取っていらっしゃいますか?

丹波 この半年、ほとんど休んでないですね(笑)。土日はほとんど潰れていますし。
 中越のときもそうでしたが、たくさんの学生たちが活動に参加してくれて組織になって・・・僕一人の研究や活動ではないですから。被災地である福島で生活をしている一人の人間としてもいろいろなことをやっていきたいと思っています。でもいろいろな立場の色々な人との新しいつながりが出来てどんどん広がっていくので、ただ大変なだけではありません。家族との関係はちょっと難しくなっていますが(笑)。

丹波先生ご自身について

――ご研究を始められた経緯についてお伺いしたいのですが、先生は社会福祉学がご専門ですね。災害支援は新潟県中越地震の時からですか?

丹波 本格的に災害をテーマとしたのは中越地震からです。ただ、僕は大学4年生の時に阪神・淡路大震災を経験したんですね。その後大学院の時、たまたま西宮市の被災者の生活実態を調査している先生のお手伝いで、仮設住宅に住んでいてなかなか復興住宅の抽選が当たらない人たちの実態などもヒアリングしました。それで災害の問題は福祉だけでないさまざまな課題、例えば生活の問題や教育の問題などが複合的に出てきているということを実感したんです。僕のもともとのテーマは貧困とかひとり親家庭の自立支援ですが、貧困の問題も生活を改善しないと解決できないという類似点がありました。
 阪神・淡路大震災の被災者の方たちと話して問題意識を持っていたことは間接的なきっかけになっています。それがなければ、中越の時にボランティアに行っていなかったかもしれません。

――知的障害児の施設に勤務されたご経験もあるんですよね。

丹波 大学から大学院にかけて数年間、臨時職員ではありましたが、知的障害児の入所施設の指導員をしていました。大学院の中では頭でっかちな研究をやりがちだったのですが、現実の、福祉を必要としている人や生活に困っている人の実態をきちんと見て研究に活かすということにもつながったと思います。

――福祉という意味では一貫されていますけれども、幅広いですね(笑)

丹波 そこに横のつながりがあるのかといわれると苦しいんですけれども(笑)、やはり知的障害児の施設で働いた経験が、その後の自立支援という概念の研究に役立っていると思います。福祉の分野で自立というのはすごく大きいテーマで、経験が直接的に成果として現れるわけではないのですが、研究の中には活かされているという気がしています。

――脱線しますが、障害をお持ちの方への支援は今回の震災ではどうだったのですか?

丹波 今回、障害者の方や高齢者の方向けのサポート付きの避難所というのは作られなかったんですね。本当はなくてはならないものであったと思います。重度の障害をお持ちの方のご家族は一般の避難所で過ごすことが難しいために、自助努力をしなければならず、辛い思いをされた方も多いようです。でもなかなかそれが表に見えてこないんです。今後きちんと検証することは必要だと思っています。
 南相馬市では精神障害者の施設の人が、市と連携して名簿提供を受け、状況確認の訪問を実施したそうです。そういう活動も加味しながら今後のことを考えていかなければならないですね。


いわき市に建設された木造仮設住宅(※)
県内の仮設住宅団地をすべてGoogleマップ上に掲載し、継続的に追跡

――今日はこれから三宅島に学生さんたちを連れていかれるそうですね。

丹波 はい。二年生の授業の一環です。三宅島が噴火して全島避難になったとき、島民は都内の高島平団地などあちこちに分散したんです。そのような状況の中で、三宅村はコミュニティの維持をどうしていくかについてかなり努力されたので、そのお話を聞きに行きます。三宅島も見通しの立たない避難生活を送られていたということでは共通点があるので。

――先生がこれから先やってみたいと思われているご研究や夢について教えてください。

丹波 震災前は「貧困の連鎖」とか「世代間の再生産」とよく言われる問題に取り組んでいました。母子家庭や父子家庭の子どもたちがどういう経過をたどって自立していくのか、日本ではあまり詳細な調査が行われていません。お隣の韓国などでは、パネル調査のような形で何年間も同じ人を継続的に調査しているんです。それで僕もひとり親家庭の子どもたちが5年後、10年後にどうなっていくのかというのを追っていきたいと思っていました。でも今回震災が起きてしまい、調査がやや難しくなり、方針変更をしなければなりませんが。
 震災や津波で親を亡くした子どもたちについても5年後、10年後を追っていかなくてはいけないのではないかと思っています。ですから少し方向転換は必要ですがその子たちが自立していく過程を検証したいとは思っています。
 ただ、今は時間がなさすぎて、動くことができません。思いとしてだけは残っているんですが。



プロフィール

丹波

氏 名: 丹波 史紀(たんば ふみのり)
経 歴: 日本福祉大学大学院社会福祉研究科博士後期課程中退。名古屋市あけぼの学園(知的障害児施設)児童指導員。その後、名古屋文化学園医療福祉専門学校講師、姫路日ノ本短期大学専任講師を経て、2004年3月より福島大学行政政策学類准教授。
専門: 社会福祉学
血液型: O型
星 座: いて座

リラックスタイム

――子どもの頃はどのようなお子さんでしたか?

丹波 ごくごく普通の子どもでした。特に科学に興味があったわけでもなかったし、勉強もあまりしなかったので、何で今研究者やっているんだろう、と (笑)。学生時代はいろいろなアルバイトをしましたね。病院の守衛のアルバイトをして死体を運ぶというようなこともしていました (笑)。福島大学の行政政策学類は、企業などに勤めてから研究者になった人も少なくないんですよね。ですから、色々な経験をするということは大事なんだと思います。

――大学を卒業する時には、大学院に行って研究者になろう、と決めていらしたのですか?

丹波 そういうわけでもなかったです(笑)。ただ、大学のゼミの真田是(さなだ・なおし)先生との出会いが大きかったですね。すごく活発に活動をされている方で、自分も福祉という領域で仕事をしてみたい、と思いました。
 研究テーマも「これをやらなきゃ!」というのはあまりなくて、貧困の問題をやっていたらひとり親家庭のお母さんたちに広がっていき、という感じで、いい言葉でいうと「臨機応変」なんですよね。でもいろいろなテーマでやっていると同じところに結びついていくこともあります。いろいろな生活困難を抱えた人の自立支援をどうサポートしていくかという問題は、ひとり親家庭のお母さんや、貧困でダブルワーク、トリプルワークをしなくては生活できない人にも共通しますし、被災者にもつながります。

――気分転換や息抜きはどのようにしてされていらっしゃいますか?

丹波 前は映画を2~3本ハシゴするのが息抜きでしたが、今はその時間も取れなくなってしまいまして(笑)。仕事を気分転換にしているところがありますね。
 これから行く三宅島も、僕、船酔いしやすいんで心配なんですが(笑)、福島を少し離れてみることは別の角度からものを見つめなおす良いきっかけになりますよね。なるべく気持ち的に折り合いをつけてやるようにしています。

――研究を行う上でのモットーや座右の銘はありますか?

丹波 現場になるべく出かける、というのがまず一つですね。福祉の問題は現場に行かないとだめです。でも現場にどっぷり浸かりすぎて自分を見失ってしまうのもダメで、研究として冷静に見なければならない部分もあります。
 また、先ほども少し触れた真田是先生の座右の銘が「理論は原則的に、思想は人間的に、行動は節度を持って」というものなんです。数年前に亡くなられ、その後に知ったのですが、すごくいい言葉だと思って大切にしています。

――先生ご自身も若くていらっしゃいますが、若手研究者へのメッセージをお願いします。

丹波 自分自身がこれからしっかり研究をやっていかなければならない立場なので、アドバイスは難しいのですが、例えば今回の震災では被災地にいろいろな研究課題が眠っています。自分がこういう研究をやっているから被災地でデータを取ってくる、というのではなく、被災地にボランティアなどで出かけて行って自分の領域を広げて欲しいです。その時は片づけを手伝わされたとしか思わないかもしれませんが、被災地の人と関わって研究の幅が広がったり、新たなテーマを見つけられるかもしれません。自分はこれしかできないと思わずに、いろいろな人と関わる中で新しい領域を作ってもらえたらいいと思います。
 僕自身も山古志や今回の震災で、他の分野のいろいろな研究者の方たちとつながりが出来ましたし、企業の方などとも関わりができ、関与者が広がりました。
 自分から機動的に動けば、結果としてたくさんの人と関わりを持つことができると思うのでぜひ積極的に動いて研究者としての幅を広げてもらえればと思います。


取材を終えて

 恵向公園の仮設住宅のサイトビジットに伺った日は、大型の台風15号が本州を縦断した翌日でした。東北本線など在来線の一部が終日運休、郡山駅から恵向公園へ向かう「いつもなら20分ほど」の道路も大渋滞。やっとのことでたどり着いた現地では住宅や集会所の一部が床上浸水するなど、さらに大変な現実が待っていました。
 恵向公園の仮設住宅団地はアサヒビールの福島工場から徒歩10分ほどのところにあります。まだ小雨のパラつく天気の悪い日だったこともあってか、人の気配はあまり感じられませんでした。RISTEXが平成23年8月4日に仙台で行った、 社会技術と復興を考えるシンポジウムを聴いて丹波先生のプロジェクトに参加を申し出て下さったという企業、帝人さんのスタッフの方も数名来られ、熱心に見学されていました。

 原発のために避難されている方は、時々短時間の「一時帰宅」をします。津波でなにもかも失った方と違って家財は残っているので、必要なものを取ってくることが出来ますが、「一時帰宅」するたびに「戻れない」ことを実感し、不眠などの症状を訴える方が増えるのだそうです。今後は生活支援相談員などによる見守りやコミュニティのつなぎ直しが、被災された方の精神面の支えとなり、避難生活の質を大きく左右するように思われます。
 木造の仮設住宅は断熱性・吸湿性にすぐれるため、結露が起こりにくく、室温調節もしやすいそうです。そして何より見た目に温かみがあります。2DKは約30平米、3Kが約40平米と決して広くありませんし、周りは工業団地で生活のインフラもほとんどないなか、何時帰れるかもわからない、見通しの立たない避難生活が厳しいものであることは変わりませんが、丹波先生たちの積極的な活動により生活の質が少しでも上がり、被災者の方々が安心して健やかに毎日を送ることができるようになることを心からお祈りしたいと思います。

関連リンク

  福島大学
  福島大学災害復興研究所



TEXT :RISTEX広報 すもも
PHOTO:RISTEX 「研究開発成果実装支援プログラム」担当 橄欖、RISTEX広報 すもも
※印の写真は丹波先生のご提供による

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